別れた彼を忘れられない

忘れることができない人がいる。別れて半年以上たった今でも。優しくて、頼もしくて、落ち込んだ時には励ましてくれる。常に私の心の支えでいてくれた。でも、そんな彼はもういない。

次の恋愛を探しても、いい人には巡り合えなかった。無意識に、彼と同等か、それ以上の人を求めていた。そして、それをすればするほど、彼のことを思い出してしまう。彼のことが頭の中から離れない。いつも寄り添ってくれた、彼の姿が。

気がつけば、彼のSNSをのぞいていた。帰り道に偶然出会わないかと、彼のマンションの前で待っていた。だが、こんなことをする自分が嫌でたまらなかった。未練がましくて、うっとおしい。私がこんなことやられたら、怖い思いをするだろう。どうにかして、彼への依存を断ち切りたかった。

誰かにこの想いを聞いてもらいたかった。そうすれば、何か新しいことに気付けるのではないだろうか。私が彼に固執してしまう理由も、明らかになるのではないだろうか。

心理を専門とする人に相談すれば、何かわかるかもしれない。もしかしたら、心の底にある依存の原因に、たどり着くかもしれない。私はふとそう考えた。そして、カウンセラーの先生がいる相談室に、足をのばす覚悟を決めた。

「未練をなくすには、どうすればいいでしょうか」

今までのことを一通り説明した後、私は先生にそう質問した。彼女は、私の方に視線を投げると、私に向かって穏やかに微笑みかけた。

「彼への想いに踏ん切りをつけるには、あなたの心の奥にある引き出しを、開かなくてはいけないわ。そのために、いくつか質問をするけど、いいかしら?」

「はい」

私が軽くうなずくと、先生も呼応するようにうなずいた。

「まず、付き合っていたころのことをきくわね。彼が支えてくれている間、あなたはそれを、どう感じていた?」

「とても安心していました」

「そう。あなたが安心していたということは、彼はあなたの不安を埋めてくれたのかもしれないわね」

たしかに、不安な時に彼がそばにいてくれると、とても落ち着いたことを覚えている。安らぐ、ということは裏を返せば、不安を取り除く、という意味にもなる。

「でも、彼がいない今は、頼れる人もいないんです。失敗することが怖くて、何かを決めるのも一人じゃ不安で……」

「なるほどね」

先生はシャーペンを持ち、私の言ったことを白紙に書き連ねていった。そして、情報をまとめ終わると、いったん右手を止め、再び視線を私に向けた。

「あなたは、自分がやりたいことを決めるときに、自信をちゃんと持ってる?」

「……持ってないかもしれません。人目や批判が怖いから」

例えば、ポテチにマヨネーズをかけたくても、デブだと思われそうで怖い。萌え系のアニメを見たくても、オタクだと思われそうで気が引ける。

「そう。それが原因かもしれないわね」

「え?」

自信と依存がつながっている?一体どういうことなのだろう。言葉を飲み込めず、瞬きを繰り返す私に、先生は一から説明するね、と言って、ホワイトボードの前に立った。

「自分がすることに自信がないのよね?もしかして、ご両親や先生はあなたのすることを否定している?」

「先生はしていません。でも、両親はそうかもしれない。小さいころから厳しかったんです」

おやつを買っていいか聞けば、栄養が偏るからダメだと言われた。習い事をしてもいいか聞けば、勉強の邪魔になるだけだと怒られた。だから私は、いいつけを守ってきてばかりいた。

私が話し終えると、先生はホワイトボードの前で相槌を打った。

「そう。親に従順だったのね。だから、自分で決めることに、誰かの同意を求めてしまうのね」

自信がない理由は、小さい頃からのことだった。性格や個性は、これほど早くから決まってしまうのだ。私はその事実に驚いた。

「親に反対されたときは、どう感じた?」

「自分のことを否定されているみたいで、つらかったです。でも、いつも失敗ばかりする私は、言いなりになるしかないから……」

先生は、ホワイトボードの上にペンを滑らせた。そこには、私の負の感情が、青ペンでつづってある。

「そう。じゃあ、親にダメだって言われたことを、することはできる?」

「そ、そんなのできないです。私のことを考えて言ってくれているから、申し訳ないって思っちゃいます。それに、たとえやったとしても、親が納得してくれるか心配で……」

「親に納得してもらわないといけない。そう思っているのね」

「はい」

白い画面に刻まれていく、私の心の叫び。恥ずかしさと、苦しみから解放されるのではないかという期待で、胸がいっぱいになった。

「わかっているとは思うけど、あなたのご両親は、あなたに幸せになってほしくて、あなたを必要以上にしつけてきたの」

「はい」

「でもそれは、ご両親が想うあなたの幸せ。あなたが想うあなたの幸せじゃない。あなたは、自分の人生をご両親にゆだねるつもりなの?」

「そんなこと……」

別に、そんなつもりはなかった。私はただ、親の望む道を進んでいるだけだった。それが、私のためにもなるし、親も満足する人生だから。

「ご両親の想いのままに生きてきて、あなたは今までどう感じた?」

順風満帆な人生だった。幼いころから英会話教室に通っていたから、英語の勉強に困らなかった。栄養バランスがいいものを食べていたから、健康でいられた。偏差値の高い高校に入れたから、将来の選択肢も増えた。

そう伝えると、先生はホワイトボードの一部分を、繰り返し丸で囲った。それは、私の感情の部分だった。先ほど私が話した「自分のことを否定されているみたいで、つらかった」という言葉だった。

「表では、不自由なく生きてこれたかもしれない。でも、あなたが失った大切なものは何?」

「……自信」

「もう一度聞くわね。ご両親の想いのままに生きてきて、あなたは今までどう感じた?」

私は、怖かったのかもしれない。自分の人生をご両親にゆだねるつもりなのかという問いが。まるで、自分を否定しているような気がして。だから私はむきになって、真実を口にしなかった。

ただ、私は今の状況から抜け出したかった。彼への依存を断ち切りたい。自分の人生を歩みたい。自信がつくようになりたい。そのためには、この場を乗り越えなければいけない。

「やりたいことがあっても、無駄だ、意味がない、と言われました。趣味にお金を費やそうとしたら、もっと人生のためになるものに使え、とけなされました。いつも私の行動を打ち消されました。すごく苦しかったです」

今度は、先生も腑に落ちたようで、首を縦に動かした。

「そうね。あなたは両親から、生きる上での行いに、制限をかけられすぎていた。動けないように、太い縄で棒に縛り付けられていたようなもの。でも、これからはその縄をほどいてく必要があるのよ」

「でも、そんな勝手なことをしたら、また怒られます。たとえ自分のやりたいことをやったとしても、親からは許されない」

「厳しいことを言わせてもらうけど、あなたは両親の言いなりになることで、責任から逃れているのよ。自分を被害者扱いしているの。もし失敗しても、親のせいだって言えるでしょう?」

怒りの波が、身体全体に迫ってくる。力を込めた手が、熱を帯びていく。ただ、その憤りはなるべく表に出さないようにした。平然としているふり、顔はいつも通り。なぜなら、先生が言っていることが、的を射ているからだ。ここまで正しいことを言われては、反論もできなかった。

「……自分の人生に責任を取るには、どうしたらいいですか」

胸の中にとどめた感情を消化し、先生にそう尋ねた。おそらく、難しいことに違いない。私が今まで出来ていなかったことなのだから。

「簡単よ」

私は今、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしているだろう。なぜなら、先生の口から飛び出したのは、あまりにも予想外の言葉だったからだ。

「自分自身を認めてあげるのよ。他人に受けとめてもらうことには、常に不安が付きまとうでしょう?だから、まずは自分を受け入れてあげるの」

先生は、手でジェスチャーしながら、さらに言葉を重ねた。

「失敗してもいい、途中でつまづいてもいい、あなたがやりたいことをやってみて。そして、やった後で、本当にやりたいことだったのかを自分に問うの。その時、心の中の自分は答えてくれるわ。やりたかったって」

「本当にそれだけで?」

「ええ。簡単でしょ?」

私が静かにうなずいた。先生は、私を見ながら続けた。

「あなたに自信がつけば、彼への依存の気持ちも和らぐわ。だって、あなたが彼を求めている理由は、不安を解消したいから。あなたの場合、自信をつければ、不安を軽減することができる。これからは、自分の人生に責任をもって。きっと、束縛から解放されたあなたは、新たな道を見つけることができるはずよ」

私は、その場で目を閉じた。そして、自分のやりたいことをする私を、イメージしてみる。すると、あれほど不安で埋め尽くされていた心の中は、未来の希望で満たされた。

友達と遊びたい、ピアノを習いたい、漫画を読みたい、菓子パンを食べてみたい。ほんの些細なことだけど、自然と胸が躍り、心が弾む。なんて楽しいのだろう。一抹の不安など、吹き飛ぶくらいに鼓動が高鳴ってくる。

これからの人生は「自分が想う自分の幸せ」を考えて、精一杯歩んでいきたい。将来へ向かって胸を張って、突き進もう。この先、どんな壁にぶつかっても。私は、地を蹴るように勢いよく、パイプ椅子から立ち上がった。

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