別れたいけど別れられない

「付き合っている彼のことで相談があるんですけど……」

初めての相談室だった。前までは、ここの扉を開くことに少し抵抗があったが、とある理由で、私はこの部屋に足を踏み入れた。怖い人だったらどうしよう、と緊張していた私だったが、カウンセラーの先生は、そんな私を快く迎え入れてくれた。

「うん、わかったわ。一度、席に座りましょうか」

少し古びたパイプ椅子に、私は腰かけて長く息を吐いた。先生の姿に安心したとはいえ、まだ心の糸は張ったままだった。

「早速だけど、聞かせてね。あなたの彼氏は何歳?」

「私が高2なんですけど、彼は1個上の高3です。つまり……18歳です」

「なるほどね。それで、あなたは今日、何を相談に来たの?」

話さなければいけないとわかっているのに、いざ相談するとなると、ためらってしまう。本当は、あまり人には言いたくないことだった。ただ、このままの状況でいることも、耐えられなかった。私はこの苦しみから抜けるために、今日ここまで足を運んだのだから。

「彼氏とは、付き合って1年なんですけど、最近彼は、機嫌が悪くなると、私に暴力をふるうんです」

あら、と先生は少し目を見開いた。

「どうして彼は、あなたに暴力をふるうのかしら」

「彼は進路のことで、親と不仲なようなんです。自暴自棄になっている彼に、私が『しっかりしてよ』と言ったことで、彼の機嫌を損ねてしまったんだと思います」

「そう、機嫌を損ねてしまったのね」

窓から風が吹き込んだ。冷たい風だった。外は小雨で、空は黒い雲に覆われている。それをみると、私の気分まで沈んできた。

「……付き合い始めたころは、とても優しい人でした。手をあげられることなんて、考えもしなかったくらい。でもそのうち、暴力の兆候が見え始めてきました。最初は、不機嫌になると物にあたっていたのですが、ついに私にも……」

「そうなの……」

「どうにかして、私が彼を支えないといけない、そう思いました。でも、私も正直限界を感じてしまっています」

つらい日々が頭をかけ巡った。彼の怒声と、青筋が浮き出た顔が、脳裏をよぎる。すでに、私の手には負えない事態だった。だが、親にも相談できなかった。恥ずかしいし、手をわずらわせたくなかったから。それになにより、別のことがこわかったから。

「よく耐えてきたわね」

「いえ、そんな事ないです。だって彼は、暴れた後、急に弱々しくなるんです。そして、私に謝ってくるんです。ごめんね、痛い思いをさせたね、って。だから、彼が悪いわけじゃない。彼を支えることができない、私が悪いんです」

「そう。自分が悪いと感じているのね」

先生は、彼のことも、私のことも否定することはなかった。ただ、受け入れてくれるその姿勢が、私にとっては楽だった。

「彼はいつも、どんな様子なの?」

「束縛がすごいんです。電話に出ないと浮気を疑ってきます。女友達と話すだけで、他の人と話すなって言われます。SNSの友達も、すべてチェックされているんです」

「それは辛いわね」

「はい。それで、最近別れを切り出しました。でも、そこから彼の暴行が始まりました」

大きな手で頬を叩かれる。筋肉質な足で、体を蹴られる。それを思い出すだけで、体が震え、大きな恐怖心がわき上がってくる。

「あなたの体には、外から見える場所にも傷があるけど、親御さんや学校の先生は気付かなかったの?」

「何度か聞かれました。でも、そのたびにごまかしました。DVで警察には頼りたくありませんから。それに彼の報復が、一番怖いんです。殺されてしまうんじゃないかって思うと……」

「そうね。怖いわよね」

「はい。別れを切り出しても、別れることができないし、もうどうすればいいか……」

最後の言葉は、涙で声にならなかった。嗚咽を漏らす私の背中を、先生は優しくさすってくれた。

「大丈夫よ。今できることを、ひとつずつ考えていきましょう?」

「……はい」

「まず、あなたは彼が暴力で何を表現したいように感じたかしら」

暴力の裏に、想いがあるということを知っていたのに、私は知る努力をしていなかった。だから、当然、その問いに答えることができなかった。

「わからないのね。きっと、彼の気持ちがわからないから、あなたはどう対処していいか、わからなくなってるのね」

「はい」

「わからないなら、今から考えていけばいいわ。怖いとは思うけど、まずは彼の気持ちから考えていきましょうか」

私がこんなに辛いのに彼の気持ちを考える?とまどいながらも私は、その言葉に同意を示すように、首を縦に振った。彼の気持ちを知ることに、たしかに恐怖はあった。それでも、この先生となら考えていけると、そう思えた。

「じゃあ、さっそく聞くわね。どうして彼はあなたを束縛するのかしら」

「私を疑っているからです。きっと、私は彼に信用されていないんです。だって彼は、私にあれこれと問い詰めるんです。何でだ、どうしてだ、って」

「そう。大好きな相手から疑われることほど、つらいことはないわよね」

「はい」

先生は、間をおいて再び話し始めた。

「では、あなたが人を疑うときって、どんな時かしら」

「信用していないときです」

「そうよね。あなたが切り出した別れ話は、彼の目にはどう映ったのかしら」

「……裏切り、ですか?」

「そうね。彼らか見たら、あなたは彼を裏切ったことになるわ」

なるほど、彼は私の別れ話を、そうとらえていたのか。

「彼は何で、たくさん傷ついてきたの?」

「親から大切にされていないからです」

「そう。彼は彼で、自分の心が傷つかないように、自分を守ることで精いっぱいなの。本当にここに来るべき人は、彼なのかもしれないわね」

「……」

彼の暴力は、余裕がない証だったのかもしれない。自分のことだけで限界で、周りのことまで構うことができない。それを聞いて改めて、彼のせいではないのだと、そう思えてきて仕方がなかった。

「もし、あなたが傷ついていて、本当にこれ以上傷つきたくないときは、人からどう接してほしい?」

「そっとしておいてほしいです」

「そうね。じゃあ、その時どうすれば、あなたの心の傷は癒えるのかしら」

「何も聞かずに、抱きしめてほしいです。すべてを受け入れてくれるように、優しく包み込んでくれるように……」

父と母が、つらい時に寄り添ってくれるような、そんな感じの雰囲気で、抱擁してほしい。そう私は思うだろう。

「でも、今のあなたは、彼を抱きしめられるかしら」

「……怖いです」

「そうね。優しく抱きしめることは、本当は親がすることなの。実の親だからできることなのよ。これは、あなたにとっては重荷かもしれないわね」

「そう思います」

先生は、私から離れて席に戻った。

「整理するわね。あなたが悩んでいることは、彼と離れたいけど、離れられないこと。それは、彼の接し方がわからないから。でも、その答えが見えてきた。あなたが今、彼に出来る事は何かしら?」

「深く傷ついた彼を、優しく包み込むことです」

「そうね。でも、親にしかできない無償の愛を、あなたが代わりに与えることは、できるかしら?」

「今の私には、とてもできません。今の私にできることは、ただ耐えること。それだけです」

「そうね。私は、あなたの人生を大切にしてほしいわ。若いあなたが彼に人生をささげるのはもったいないし、あなたには辛いことだと思うわ」

先生の言う通り、私にはまだ荷が重すぎるし、何より私は、彼を包み込むにはまだ未熟だった。それに、私には、まだやることがたくさんある。勉強も、遊びも、運動も、趣味も、思いきり楽しみ経験を培う時期なのだ。

「はい。私も私で精一杯です」

「勇気をもって、ご両親と相談してみてはどうかしら」

「そうします」

私の道が見えてきた。目の前の霧が、晴れたようだった。その瞬間、まばゆいばかりの光が、部屋全体を包み込んだ。まぶしさに、目を細めながら窓を見ると、雲の隙間からいつのまにか、太陽が顔を出していた。

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